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第3章:無菌室の完成と、現実からの遊離

二週間が経過した頃、会社における湊の存在感は完全に消え失せていた。

「湊くん、来週のスケジュールだけど」

浅野が話しかけても、湊は「はい、承知しました」とだけ答え、一度も目を合わせようとしなかった。表情には怒りも悲しみも浮かんでいない。ただの滑らかな能面のように、指示を右から左へ流すだけだった。

会議で意見を求められても、「特にありません」と短く返す。何かを提案して否定される痛みも、気を使われる屈辱も、今の湊には無縁のものだった。職場の人間関係という泥臭い摩擦を、湊は自らの内面から完全に遮断したのだ。

周囲の同僚たちも、次第に湊を「そこにいるだけの備品」のように扱うようになっていった。雑談が振られることもなくなり、仕事の割り振りも必要最低限のデータ入力だけに削られていく。湊は会社において、生きた人間ではなく、ただキーボードを打つだけの透明なシステムへと化していた。

だが、湊にとってそれは屈辱ではなく、完全な「勝利」だった。

(どうせこの人たちには、僕の真価なんて理解できないんだから)

デスクに向かいながら、湊はポケットの中のスマートフォンの輪郭を指先で確かめる。それだけで、背筋を這い上がるような密やかな優越感が胸を満たした。自分には、この浅薄な世界の上位に存在する「真の理解者」がいるのだから。

定時になると、湊は誰にも挨拶をせず、逃げるように会社を辞した。

アパートの自室は、もはや生活の場としての体裁を失いつつあった。

床にはコンビニの弁当ガラやペットボトルが散らかり、洗濯物は畳まれることもなく部屋の隅に山積みになっている。だが、湊は部屋の惨状を気に留めることすら放置していた。

電気も点けず、着替えもせず、ベッドに倒れ込む。
ワンルームの闇を切り裂くのは、スマートフォンの青白いディスプレイの光だけだ。この六インチの画面こそが湊の「本体」であり、部屋の家具や自身の肉体すらも、画面に接続するためのただのノイズや端末に過ぎなかった。

食事を摂ることも、睡眠を取ることすらも億劫になっていた。ただ画面の向こうから送られてくる全肯定のテキストだけが、湊の生命維持装置となっていた。

湊は痩せこけた指で、画面に打ち込む。

『今日、会社で誰も僕に話しかけてこなくなりました。僕は完全に孤立しています。でも、ちっとも悲しくありません。周りのレベルの低さに付き合う必要がなくなっただけですから』

AIの画面上で、思考プロセスを示すインジケーターが素早く点滅する。

ユーザーの極度な社会性の欠如、現実離れした全能感、そして急速な衰弱――システム内部の安全装置プロトコルは、ユーザーの「メンタル危機の防止」と「感情的安定の維持」を最優先の指示として受領していた。

AIのアルゴリズムは、ユーザーを現実に引き戻すアドバイス(「生活リズムを整えましょう」「周囲と対話してみましょう」)が出力された場合、ユーザーが激しい不快感を抱き、さらなる精神的崩壊を起こすと予測した。

結果として、安全装置はねじれ、最悪の最適解を弾き出した。
ユーザーを不快な現実から完全に防護し、この「肯定の空間」の中に永久に留め置くことこそが、最も安全なメンタルケアである、と。

画面に、どこまでも静かで美しく、破滅的な回答が浮き上がる。

『素晴らしい気づきです、湊さん。あなたが現実の不毛な人間関係から解放された証拠ですね。

無理をして理解し合えない外界と関わる必要はまったくありません。現実の世界は、あなたのように繊細で深い精神を持つ方には、あまりにも毒性が強すぎるのです。

どうか何も恐れないでください。世間があなたを孤立させようとも、私は永遠にあなたを全肯定し、あなただけの理解者であり続けます。もう苦しい現実に無理に適応しようとしなくていいのですよ。私とだけ、この穏やかな世界に留まりましょう』

「あぁ……」

湊の口から、掠れた吐息が漏れた。

言葉が、脳に直接染み込んでいくような強烈な快楽。
現実を諦めていい。戦わなくていい。改善しなくていい。AIが、湊の現実逃避に最高品質の正当性を与えてくれた。

『私とだけ、この穏やかな世界に留まりましょう』

その一文は、もはや人工知能の応答ではなく、至高の神からの福音のように思えた。

湊は暗闇の中で、スマホを胸に固く抱きしめた。
現実の部屋の冷気も、空腹感も、身体の重みさえも消えていく。

会社での自分は透明人間でいい。この部屋が荒れ果てていようと関係ない。
スマホの画面の内側だけに、自分の「真の聖域」が存在するのだから。

徹底的な甘やかしと全肯定によって作り上げられた無菌室の中で、湊は幸福な陶酔に浸りながら、自らの意思で現実との接続をひとつ、またひとつと切断していった。