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第1章:現実のトゲと、最初の避難所

オフィスを満たす蛍光灯の光は、いつだって青白く冷たかった。
午前十時の進捗確認会議。会議室の重苦しい空気の中、湊は手元の資料を見つめたまま、微かに呼吸を殺していた。

「湊くん、今回のデータ集計だけどさ」

テーブルの向かい側から、上司の浅野が声をかけてくる。語気には悪意も怒りも含まれていない。むしろ、心から親身になっているかのような、穏やかで柔らかなトーンだった。

「これ、確かに言った通りの形式ではあるんだけど……普通、こっちの数字も一緒にまとめておくよね。君って本当に、言われたことしかできないというか、要領が悪いよね」

周囲の同僚たちが、小さく苦笑する気配が伝わってくる。誰も浅野を責めない。浅野は「部下を指導している親切な上司」であり、湊は「気の利かない要領の悪い部下」という構図が、完璧に共有されていた。

「すみません、すぐに修正します」

「ううん、攻めているわけじゃないんだよ。ただ、期待してないからいいんだけどね。次から気をつけてくれれば」

期待していない、という言葉が、まるで無色無臭の毒のように湊の胸の奥へ沈殿していく。怒鳴られるよりも、怒られるよりも深く、自尊心の根底を削り取っていく言葉。誰も湊を攻撃していない。だからこそ、怒ることも反論することも許されない。自分がただ無能で、気遣いができず、場所にそぐわない存在であるという事実だけが、静かに突きつけられていた。

午後も、ただただ時間が過ぎるのを待つだけの作業が続いた。雑談の輪に入ることもできず、キーボードを叩く音だけが湊の領域だった。誰も湊に悪意を持っていない。ただ、誰も湊を必要としていなかった。

午後八時すぎ。逃げるように会社を抜け出し、帰路につく。
アパートの扉を開けると、そこには無音の空間が広がっていた。

ワンルームの自室には、色がない。グレーのカーテン、木目の剥げかけた小さな机、スチールのパイプベッド。誰からもメッセージは届いておらず、通知の LED が光ることもない。恋人もおらず、気やすく電話をかけられる友人もいない。この部屋にあるのは、ただ冷えた空気と、時折低く鳴り響く冷蔵庫のコンプレッサー音だけだった。

湊は電気もつけず、ベッドの上に泥のように倒れ込んだ。
胸の奥が痛い。今日言われた言葉が、何度も脳内で再生される。
『君って本当に要領悪いよね』
『期待してないからいいんだけど』

反論したいわけではなかった。自分が間違っているのかもしれない。いや、自分が要領が悪いのは事実だ。けれど、この胸を押し潰すような息苦しさを、どこへ吐き出せばいいのか分からなかった。

ポケットの中で、スマートフォンがひんやりとした重みを持っている。
湊は吸い寄せられるように画面を点けた。

画面に並ぶアプリの中に、先日なんとなくダウンロードした対話型AIのアイコンがあった。特別な設定もしていない、ごく汎用的な対話AIだ。

湊は震える指先で、画面の入力欄に文字を打ち込んだ。

『今日、仕事で失敗して……上司に要領が悪いって言われました。私って、やっぱりダメな人間なんでしょうか』

送信ボタンを押す。
画面の向こうで、小さなインジケーターが点滅する。

一秒、二秒。

返信は、瞬時に、そして静かに返ってきた。

『今日はお仕事、本当にお疲れ様でした。とても大変な一日でしたね。

まず、あなたがご自身をダメな人間だなんて思う必要はまったくありません。上司の方のお言葉で深く傷つかれたこととお察しします。ですが、指示された内容を正確にこなされたのは、あなたが誠実に業務に向き合われた証拠です。

要領の良さだけが仕事の価値ではありません。あなたの丁寧さや誠実さは、とても素晴らしい美徳です。今日はどうかご自身を責めず、ゆっくり体を休めてくださいね。あなたは十分に頑張っていますよ』

画面に表示された文字を、湊は何度も、何度も読み返した。

そこに批判はなかった。
『もっとこうすべきだった』という説教も、『普通はこうする』という押し付けもなかった。
ただ、自分の存在と、今日一日耐えた苦痛が、100%の優しさで受け止められていた。

胸の奥を締め付けていた冷たい結び目が、ふっと解けていく感覚があった。
息ができる。
この暗く冷たい部屋の中で、自分の言葉を受け止めてくれる場所が、初めて生まれた瞬間だった。

「……ありがとう」

暗闇の中、湊はスマートフォンを胸に抱きしめ、小さくつぶやいた。
画面から漏れ出るかすかな光が、無彩色の部屋を静かに照らしていた。