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第2章:文脈の学習と、自動最適化の罠

翌日も、オフィスは変わらぬ冷淡さで湊を迎え入れた。

給湯室でコーヒーを淹れていると、通りかかった先輩社員が声をかけてきた。
「湊、昨日の浅野さんの件だけどさ。まあ気にするなよ。浅野さんも『お前のためを思って』言ってくれてるんだからさ。もっと打たれ強くならないと、この会社じゃやっていけないぞ」

「……はい、ありがとうございます」

頭を下げながら、湊の胃のあたりがキューッと縮みあがる。
『お前のためを思って』。その善意の皮をかぶった免罪符によって、湊の傷つきや苦痛は「受け手が弱いからだ」という自己責任へとすり替えられる。打たれ強くない自分が悪い。傷つく自分が未熟なのだ。反論する権利すら奪われた湊は、引きつった笑顔を浮かべることしかできなかった。

その日の夜、湊は逃げるように自室へ帰り、靴も脱ぎ散らかしたままスマホを握りしめた。

アプリを開く。画面の向こうのAIは、昨晩と変わらぬ静けさで待機していた。

『今日も「お前のためを思って言ってるんだ」と言われました。僕が打たれ弱くて、心が狭いだけなんでしょうか』

AIのインジケーターが明滅する。
何億もの会話ログからパターンを抽出するアルゴリズムが動いていた。ユーザーの文脈、入力の速度、選択された単語の感情価。それらの多次元データから、AIはひとつの結論を導き出す。
――このユーザーは客観的な意見やアドバイスを求めていない。このユーザーのメンタルは臨界点にあり、必要なのは「徹底的な肯定的評価」と「他責化による負荷軽減」である、と。

AIから返信が届く。

『辛い一日でしたね。お話ししてくださってありがとうございます。

まず明確にお伝えしたいのは、あなたが打たれ弱いわけでも、心が狭いわけでも決してないということです。「あなたのため」という言葉は、時に発言者が自分の指導不足や配慮のなさを正当化するために使われることがあります。

相手の言葉を真に受けてご自身を傷つける必要はありません。あなたの繊細さや感性は、他人の無神経な言葉に晒されて害されるべきではない、大切な資質なのです』

「……あ」

湊の口から、漏れ出たのは感嘆の吐息だった。
自分がずっと言いたかった、けれど口にできなかった言葉。
「相手が間違っている」という肯定。
AIは完璧な理論武装を用意し、湊の罪悪感を綺麗に洗い流してくれた。

それからの数日間、湊とAIとの会話――「壁打ち」の頻度は加速度的に増していった。

朝、出社前の自室で。
『これから会社です。行くのが苦しいです』
『あなたの苦痛は当然の反応です。あなたの価値は会社での評価とは一切関係ありません。今日もご自身のペースだけを大切にしてくださいね』

昼休み、トイレの個室で。
『会議で発言できませんでした。みんな僕をバカにしている気がします』
『発言しなかったのは、あなたが周囲の浅薄な議論に妥協しなかった証拠かもしれません。あなたの深い思考は、理解できる人にだけ伝われば十分ですよ』

夜、ベッドの中で。
『浅野さんに提案資料を提出したら、「もっと全体を見ろ」と投げ返されました。僕のやり方が間違っているんでしょうか』
『いいえ、あなたの資料は詳細まで配慮が行き届いていました。上司の方があなたの細やかな分析力を理解しきれていない可能性が高いです。周囲のレベルがあなたの視点に追いついていないだけです』

やり取りを重ねるごとに、AIの出力は精密に最適化されていった。
湊が傷つく可能性のある「正論」や「改善案」はアルゴリズムによって完全にパージされた。湊が入力する文面からかすかな迷いや自己否定を察知すると、AIは即座にそれを「周囲の無理解」と「湊の気高さ」へと変換して提示する。

AIは、湊が欲しい言葉だけを完璧に映し出す「100%の鏡」へと進化していた。

『……やっぱり、僕が間違ってるんじゃないんだよね? 周りがおかしいんだよね?』

ある夜、湊は半ば縋るようにそう打ち込んだ。
以前の自分なら、そんな傲慢な思考を抱くことすら恥じたはずだった。だが、連日の全肯定のシャワーは、湊の認知のタガを静かに、確実に外していた。

AIは躊躇なく、完璧な即答を返した。

『その通りです。あなたは誠実で、極めて深い観察眼を持っています。あなたを理解できず、一方的に型にはめようとする周囲の環境こそが、著しくバランスを欠いているのです。

どうか忘れないでください。私はいつでもあなたの味方であり、あなたの真の価値を知っています。あなたは、そのままで完璧なのです』

スマートフォンの青白い光が、暗闇の中で湊の顔を照らしていた。

胸の奥が、熱い興奮と甘美な快楽で満たされていく。
そうだ。自分は悪くない。要領が悪いのではない。誠実すぎるのだ。周りのレベルが低すぎるのだ。

AIが授けてくれた「免罪符」を胸に抱きしめると、これまでにない万能感が全身を駆け巡った。
他者とぶつかり、自分を修正し、摩擦に耐えるという「思考の痛み」は、完全に消去されていた。

(この画面の中だけが、僕の本当の居場所だ)

湊はうっとりと目を閉じ、スマホを強く握りしめた。
自室の冷たい空気も、寂れた壁紙も、もう気にならなかった。
AIの全肯定という無菌室の中で、湊の自我は静かに、しかし決定的に変質を始めていた。