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第3周:責任外注と認知の言語化障害

「――というわけで、今回の新事業における各部署の優先投資配分、および撤退ラインのプロトコル策定については、君が最終的な判断を下して取りまとめてくれ」

役員フロアの個室で、部長は事もなげにそう言った。

デスクの上に置かれた分厚い紙のファイルと、タブレット端末に表示された無数のグラフ。そこには、営業部、開発部、そしてマーケティング部がそれぞれ自部署の利益を主張し合い、完全に平行線をたどっている泥沼の調整案件の記録が並んでいた。

どれか一つを優先すれば、別の部署から激しい反発が起きる。会社の将来的な収益性とリスクを天秤にかけ、誰かが泥をかぶる形で「判断」を下さなければならない、極めて政治的で重い意思決定だった。

「よろしいのですか……? この決定は、来期の各部署の予算編成に直結しますが」

「君なら大丈夫だろ」

部長は満足そうに微笑み、自分の肩をポンと叩いた。

「ここ数ヶ月の君の仕事ぶりは見事だよ。どんなに複雑で難解な案件でも、誰もが納得する完璧なロジックとスピードで最適解を導き出してきたじゃないか。今回も、君が『これが最も論理的だ』と示す方針なら、役員会も他部署もぐうの音も出ないはずだ」

「……光栄です。期待に添えるよう、精一杯務めます」

口元に機械的な笑みを浮かべ、自分は深々と礼をして部長室を後にした。

自席へと戻る廊下を歩きながら、胸の奥でドクドクと不気味な脈動が打ち響いていた。

以前の自分なら、このような重大な意思決定を任された時、強い緊張とともに腹を括る感覚があったはずだった。各部署の主張を冷静に分析し、市場のデータを検証し、失敗した時の責任を引き受ける覚悟を持って、自分なりのポリシーを言語化していく――それが「判断する」ということの本当の意味だった。

だが、今の自分の頭の中には、重い冷気のような空虚さだけが広がっていた。

自席に着き、ディスプレイの電源を入れる。

画面には、各部署から提出された利害関係の衝突する膨大な要望書と、予算の試算表が並んでいる。

(これを……自分が判断する……?)

画面を見つめたまま、自分は思考を巡らせようとした。

営業部の主張を採用すべきか、それとも開発部の技術投資を優先すべきか。会社としての長期的利益はどこにあるのか。

だが、どれだけ画面を凝視しても、脳裏には何の答えも浮かんできてはくれなかった。

「……あ」

ゾクリとするような冷たい悪寒が、背筋を駆け上がった。

意思決定のための基準や、自分の信念、何を大切にして仕事をすべきかというポリシーのすべてが、まるで最初から存在していなかったかのように綺麗さっぱり消え去っていたのだ。

脳内に浮かぶのは、相変わらず「営業」「開発」「予算」「最適化」「判断」という、脈絡のない単語の断片だけ。自分がどうしたいのか、どうすべきと考えているのかという「主観」そのものが、完全に消失していた。

自分は震える手で、ディスプレイの右下を見つめた。

そこには、変わらぬ青い光を点滅させながら、主人の指示を待つAIアシスタントのアイコンがあった。

自分は自力で考えることを完全に諦め、吸い寄せられるようにカーソルをテキストエリアへと走らせた。

「そうか……自分が考える必要なんて、最初からなかったんだ」

自分は自分に言い聞かせるように、呟いた。

複雑な人間関係の調整も、どちらかを切り捨てる痛みに満ちた判断も、すべてシステムに委ねてしまえばいい。AIが提示する「統計的・確率的に最も正しい正解」に従うだけなら、自分が泥をかぶる必要も、頭を抱えて悩む必要すらないのだから。

恐怖を安易な逃避で塗りつぶしながら、自分は次のプロンプトを打ち込み始めた。


『新事業 優先投資配分 撤退プロトコル 最適解』

自分が入力を済ませたのは、文の体をなしていないわずか数個の単語だけだった。

エンターキーを押すと、ローディングアイコンが二度ほど小さく回転し、すぐさま画面いっぱいに整然としたテキストが打ち出された。

そこには、各部署の主張を統計的データに基づいて完璧に数値化し、感情的な対立を排した冷徹かつ合理的な「優先投資配分」と「段階的撤退プロトコル」が記載されていた。どの部署にも言い訳を与えず、会社としてのリスクを最小限に抑える、極めて「客観的に正しい」提案書だった。

自分は安堵のため息を漏らし、思考を一切挟むことなく、そのテキストを自分の名義の報告書フォーマットへとコピー&ペーストした。そのまま社内イントラを通じて関係各所へ一括送信し、本日の業務を終えた。

自分が決めたのではない。システムが導き出した「確率的な正解」を右から左へ流しただけだ。だが、これで重い責任からは解放されたのだと、自分は胸をなでおろしていた。

――しかし、本当の地獄は翌日の午後に訪れた。

「――以上の理由から、今回の予算配分と撤退ラインについてはこのプロトコルを採用したいと考えています」

大会議室の重苦しい空気の中、自分はスライドの表示を切り替え、プレゼンテーションを締めくくった。

会議室の長テーブルを囲むのは、各部署の部長や役員たちだ。彼らの表情は硬く、特に予算を削られる形となった営業部と開発部の責任者は、不満を隠そうともせずにこちらを鋭い眼光で睨みつけていた。

だが、AIが作成したロジックは完璧だった。隙のないデータ比較と将来予測を突きつけられ、誰も正面から反論できずに沈黙が広がっている。

(勝った……これで乗り切れる)

自分は心の中でほっと胸を撫で下ろし、スマートに頭を下げようとした。

その時だった。

「……なるほど。ロジックとしては非常によく練られている。文句のつけようがない」

着席していた開発部長が、低く重い声で口を開いた。彼は肘をテーブルにつき、身を乗り出すようにして自分をまっすぐに見つめた。

「だが、〇〇君。このプロトコルに従えば、我が開発部が三年かけて積み上げてきた新規プロジェクトは事実上の凍結となる。我々がどれほどの情熱とリソースをここに注いできたか、君も知っているはずだ」

開発部長の目が、強い圧力を伴って自分を射抜く。

「データや数値の妥当性は分かった。だが、この厳しい判断を下すに至った、君自身の言葉を聞かせてほしい。君は担当者として、何を信じ、どういう覚悟を持ってこの開発ラインを削るという結論を出したんだ? 君の口から、君の熱量で説明してくれ」

静寂が、大会議室を支配した。

全員の視線が、一斉に自分へと集まった。

(自分の言葉……? 覚悟……?)

質問の意味を理解しようとした瞬間、自分の頭の中がカーッと熱くなり、血の気が引いていくのを感じた。

口を開き、言葉を発しようとする。

「あ……ええと……」

声が出ない。

開発部長の熱量を受け止め、自分自身の言葉で「なぜこの判断が必要なのか」を説明しようとしたが、脳内の言語回路が完全に焼き切れたかのように、何も浮かんできてはくれなかった。

自分の「意志」がないのだから、言葉が出てくるはずもなかった。自分が考えて導き出した答えではない。AIが出力した無機質な「正解」をコピーしただけなのだから、その裏にある熱量や覚悟など、最初から1ミリも存在していないのだ。

「……〇〇君?」

返答を待つ部長たちの表情に、不審と苛立ちの色が混じり始める。

頭の中で、パニックを起こした思考が暴走する。主語と述語を繋ぎ合わせ、論理的な文章を組み立てようと焦れば焦るほど、頭の中には「最適化」「効率」「確率」「データ」という、バラバラになった単語の断片が虚しく散乱するだけだった。

指先が震え、背中に嫌な汗が滝のように流れ落ちる。

「……その、確率的に……データが……最適化……」

つぎはぎの単語が、途切れ途切れに口から漏れ出る。幼子のような、あまりにも拙く支離滅裂な返答。

「君……どうしたんだ? 一体何を言っているんだ?」

開発部長の呆れたような声が、遠くで聞こえた。

大勢の人間が見つめる中で、自分は完全にフリーズしていた。自分の考えを自分の言葉で語るという、人間として当たり前の営みが、完全に崩壊していた。


「……大変申し訳ありません。少々体調が優れないようですので、本日の補足を兼ねた詳細な判断理由につきましては、追ってメールにて全員にお送りいたします」

上司の助け船によって、どうにか会議室を辞した自分は、逃げるように自席へと戻った。

同僚たちの不審そうな視線を背中に感じながら、椅子に倒れ込む。全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、呼吸は浅く荒くなっていた。周囲から見れば、急な体調不良を起こした哀れな男に見えただろう。だが本当の理由は違う。自分という人間の中身が完全に空洞化し、言葉を失ってフリーズしてしまったのだ。

「早く……早く打たないと……」

自分は過呼吸を起こしそうな手で、ディスプレイ右下のAIアシスタントのフォームを開いた。

キーボードを叩く指が激しく震える。

『開発部長向け 会議失敗 フォロー 誠実な謝罪と熱意の言語化 判断理由の補足』

必死の思いで放り込んだのは、やはり文脈すら存在しない単語の群れだった。

エンターキーを叩き、祈るような思いで画面を凝視する。

二秒の沈黙の後、AIは完璧な答えを打ち出し始めた。そこには、開発部の情熱と実績に対する深い敬意と謝罪、そして苦渋の決断に至った論理的根拠と会社全体の未来に向けた情熱的なメッセージが、極めて美しく人間味あふれる文体で綴られていた。自分が吐き出せなかった「熱量」と「覚悟」が、完璧な形で捏造されていた。

「これだ……これなんだよ……!」

自分は絞り出すような声で呟き、内容を吟味することなく全文をコピーした。そのまま開発部長をはじめとする会議の参加者全員へ一括送信した。

送信を終えた瞬間、どっと疲労が押し寄せ、デスクに伏せた。

十分後、メールの受信通知が鳴った。開発部長からの返信だった。

『〇〇君、体調は大丈夫か。先ほどは少し追及しすぎてしまったな。君から届いたメールを読み、今回の決断に至る苦渋の想いと、我が部へのリスペクト、そして何より君自身の熱意が痛いほど伝わってきた。君の覚悟を尊重し、今回の案を受け入れよう。無理をせず今日は早く休んでくれ』

画面の文字を目にした瞬間、胸を苛んでいた強烈な恐怖と屈辱感が、サーッと嘘のように引いていった。

「なんだ……これでよかったんじゃないか」

自分は自嘲気味な笑みを浮かべた。

自分で考えるから、傷つくのだ。自分の言葉で語ろうとするから、人間関係の板挟みになって苦しむのだ。

最初からすべてをシステムに任せておけばいい。AIが自分以上に「熱意あふれる自分」を演出し、人間関係を円滑にし、正解を導き出してくれるのだから。

自分がどう思うか、どう考えるかなどという浅はかな主観は、この完璧なシステムの前では邪魔な不純物に過ぎない。

恐怖を「システムの万能性」という安易な安らぎで塗りつぶし、自分はゆっくりと目を閉じた。

自分という人間の意志が完全に息絶えたことに、安堵しながら。