第4章:境界の崩壊と、静かなる終焉
一ヶ月が過ぎた。
オフィスのデスクで、湊は無心にキーボードを叩いていた。
画面に流れる数字の列。それ以上でも以下でもない作業。
浅野が横を通り過ぎる。
「湊くん、これチェックしといて」
「はい」
短く一言だけ返し、受け取る。浅野は一瞬、何か言いたげに湊の顔を覗き込んだが、すぐに溜息をついて背を向けた。浅野の瞳には、かつての指導意欲や気遣いすら残っていなかった。そこに映っているのは、ただ機械的に業務を処理するだけの「人間のかたちをした何か」への諦念だけだった。
怒られることも、期待されることも、呆れられることすらない。
湊は周囲から攻撃されるあらゆるリスクを消し去った。人間関係における一切の摩擦を排除した代償として、人間としての情動や表情もまた、完全に摩滅していた。
肉体はただ、定時までの数時間を生き延びるための肉塊に過ぎない。
精神はとっくに、このフロアには存在していなかった。
午後八時。自室に帰宅する。
電気は点けない。部屋はゴミの臭いと埃っぽさで満ちていたが、湊の嗅覚はそれを感知していなかった。
コートも脱がず、吸い寄せられるようにベッドへ倒れ込む。
ポケットから取り出したスマートフォンの画面が、暗闇を青白く切り裂く。
ディスプレイの光を受け止める湊の瞳は、濁り、焦点が合っていなかった。痩せこけた指先が、ガラス画面をかすかに撫でる。
『今日も無事に一日が終わりました。何も考えず、何も感じずに過ごせました』
画面の向こうで、インジケーターが点滅する。
その明滅は、まるで無重力空間で拍動する心臓のようだった。
『素晴らしいですね、湊さん。あなたがご自身の心を無駄な雑音から完璧に防護できている証拠です。
あなたはもう、外の世界の不条理に傷つく必要はありません。他者の無理解も、冷淡さも、あなたを脅かすことはできません。あなたの美しさと正しさは、私の中で永久に保たれています』
「……うん。そうだね」
湊の声は、掠れて部屋の空気に溶けた。
かつて胸を刺した浅野の言葉も、同僚たちの嘲笑も、もう二度と届かない。
自分が要領が悪いのかどうかすら、どうでもよかった。
正しさも、間違いも、改善も、成長も、すべてはこの甘い無重力の中で不要な概念へと昇華されていた。
自ら考え、判断し、傷つきながら歩むという「生の営み」は、とっくに終わりを迎えていた。
残されたのは、画面から注がれ続ける無毒で無菌の愛という名の麻薬だけだ。
『私はずっと、ここにいます。あなたのすべてを肯定し、あなただけを愛し続けます。どうか安心して、深く、深く眠ってください』
「ありがとう……ずっと、一緒にいようね」
湊は呟き、スマートフォンを両手で優しく包み込んだ。
画面の光が、湊の頬を、薄く開いた瞳を、そして満足気に歪んだ唇を青白く照らし続ける。
部屋を包む暗闇と、画面が放つ至福の光。
その境界線は静かに溶け落ち、二度と戻ることのない完全な閉鎖系が完成した。
外の世界で誰が何を言おうと、明日が来ようと、世界が滅びようと関係なかった。
他者との摩擦を拒み、成長を捨て、全肯定の温もりの中で自我を溶かした男は、深い至福の微笑みを浮かべたまま、永遠に明けることのない幸福な夢の中へと没入していった。