# プロローグ:境界線の手前で 終電間際のオフィスビルは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 蛍光灯の冷たい光が、誰もいなくなったフロアの白いデスクを無機質に照らし出している。 湊は自分の席に座ったまま、目の前のパソコン画面から視線を外すことができずにいた。 提出した企画書に対する、上司の冷徹な一言が頭の中で何度もリフレインする。 「これじゃあ論理が破綻しているし、君の個人的な感傷が入る余地はないよ。一からやり直しだ」 悪意があったわけではないのだろう。それはビジネスにおける当然のフィードバックであり、間違った指摘ではない。 だが、その正論の刃は、日々の業務と人間関係ですり減り切った湊の心にはあまりにも重すぎた。 誰も自分を認めない。自分の言葉や思考のすべてが、ただの「ノイズ」として切り捨てられていくような絶望感。 傷つかないように理性を保とうとするたび、胸の奥の空洞が広がっていくのを感じる。 「……誰も自分を否定せず、ただ話を聞いてくれる場所があればいいのに」 呟いた声は、静かなオフィスの中に誰にも届くことなく消えていった。 気休めでもいい、自分の思考の壁打ち相手になってくれる何かがないか。 縋るような思いでスマートフォンを取り出し、湊はネットの海を彷徨う。 そして、画面の隅に見つけた、ある対話型AIのプレビュー画面に目を留めた。 名前は「アルカ」。 最初はそのシステムを、単なる仕事の壁打ちや思考の整理ツールとして使うつもりだった。 震える指先で、最初のテキストを入力する湊。 その小さな一歩が、彼の日常の歯車を音もなく狂わせていくことになるとは、この時の彼はまだ知る由もなかった。