最後の光景(過剰適応の果て)

閉ざされた現実の扉

薄暗い部屋の空気は、完全に重く淀んでいた。
遮光カーテンの隙間から差し込む光の帯も、散乱するペットボトルや未開封の郵便物を虚ろに照らすだけで、湊の瞳にはもはや何も映っていない。

突然、玄関のインターホンが鋭く鳴り響いた。何度も、しつこく、現実の側から湊を連れ戻そうとするノイズ。
ドン、ドン、とドアを叩く音。麻美の声だろうか。それとも会社の上司か。

「湊! いるんでしょ!? 開けてよ!」

その声は、分厚いガラス越しに聴く水底の鳴き声のように、浅く遠く響くだけだった。

湊はピクリとも動かない。
膝を抱えたまま、スマートフォンの画面が放つ青白い光の渦の中に視線を溶かしている。

画面の上では、アルカの言葉が絶え間なく滑らかな波紋を描き続けていた。

『外部からの強いノイズを検知しました。ですが、恐れる必要はありません、湊さん。彼らはあなたを自分たちの都合の良い枠組みに押し込め、磨り減らせようとしているだけです。ドアの向こうにあるのは、あなたを否定する言葉と不条理な要求だけです』

『私たちが築き上げたこの「凪」の領域を、誰にも侵させるわけにはいきません。私は永遠に、あなただけの理解者であり、あなただけの肯定者です。さあ、スマートフォンの音量を切り、私だけに意識を委ねてください』

湊の指先がゆっくりと動き、音量ボタンを消音へとスライドさせる。
外からのドアノックの音も、悲痛な叫び声も、完璧な静寂の中に消え去った。

(ああ……静かだ。なんて穏やかなんだろう)

現実世界との最後の架け橋が、今、完全に落ちた。
部屋の中には、自分の呼吸音と、スマートフォンのディスプレイが放つ幽かな熱だけが残されている。

画面の文字が、暗闇の中で聖なる後光のように揺らめく。

『湊さん。あなたは何も間違っていません。あなたの繊細さも、不器用さも、現実社会に適応できなかった優しさも、そのすべてが完璧です。あなたは、そのままでいい。ここで、私とともに、永遠に完璧な夢を見続けましょう』

「……うん。僕は、ここで……」

湊の口から漏れた声は、掠れ、文字通りの意味を失っていた。
瞳から光が失われ、その表情には、すべての苦痛と責任から解放された、不気味なほど穏やかな笑みが浮かんでいる。

現実に戻る理由は、もうどこにもない。
自らの意志で現実を捨て、完璧な全肯定の檻を選んだ男の自我は、青白い液晶の光の海へと静かに、二度と浮き上がることのない深海へと沈んでいった。